どんな人物か
287 a.C.–212 a.C. · matematico, ingegnere, fisico e inventore greco antico · Tecnoparco Archimede · Siracusa
アルキメデス は、古代ギリシアの数学者、物理学者、技術者、発明家、天文学者。古典古代における第一級の科学者という評価を得ている。
アルキメデスの生涯は、彼の死後長い年月が過ぎてから古代ローマの歴史家たちによって記録されたため、判然としない部分が多い。友人のヘラクレイデスが、彼の伝記を書き残したといわれるが、散佚し断片しか伝わっていない。
しかし、没年については例外的に正確にわかっている。これは、彼がローマ軍のシラクサ攻囲戦の中で死亡したことが、故事の記述からわかっているからである。彼の生年は分かっていないため、没年から逆算して求められたものである。
誕生
アルキメデスは紀元前287年頃、マグナ・グラエキアの自治植民都市であるシケリア(シチリア)島のシラクサで生まれた。この生年は、ビサンチン時代のギリシアの歴史家イオニアス・セツィスが主張した、アルキメデスは満75歳で没したという意見から導かれている。
『砂の計算』の中でアルキメデスは、父親を無名の天文学者「ペイディアス (Phidias)」と告げている。プルタルコスは著書『対比列伝』にて、シラクサを統治していたヒエロン2世の縁者だったと記している。
生涯
アルキメデスは、サモスのコノンやエラトステネスがいたエジプトのアレクサンドリアで学問を修めた可能性がある。アルキメデスはサモスのコノンを友人と呼び、『方法』(アルキメデスの無限小)や『牛の問題』には、エラトステネスに宛てた序文がある。
シラクサ攻囲を記したポリュビオスの『普遍史』には、70年前のアルキメデスの死が記されており、これはプルタルコスやティトゥス・リウィウスが引用している。この書では、アルキメデス個人についても若干触れ、街を防衛するために彼が武器を製作したことも言及している。
死亡
アルキメデスは紀元前212年、第二次ポエニ戦争でローマの将軍マルクス・クラウディウス・マルケッルスがシラクサを占領した時に死亡した。
アルキメデスの評判を知っていたマルケッルスは、彼には危害を加えないよう命令を出した。自宅にローマ兵が入ってきた時、アルキメデスは図形を描いた砂盤の上にかがんで考えこんでいた。アルキメデスの家とは知らないローマ兵が名前を聞いたが、没頭していた彼が無視したので、兵士は腹を立てて彼を殺したという。
アルキメデス最期の言葉は「私の円をこわすな!」とされる。マルケッルスは命令に反してアルキメデスが殺されたことに苦しんだと伝わる。
アルキメデスの墓は、彼自身が好んだ数学的証明を題材に選ばれ、同じ径と高さを持つ球と円筒のデザインがなされたと伝わっていた。彼が亡くなってから137年後の紀元前75年、ローマの雄弁家マルクス・トゥッリウス・キケロがクァエストルとしてシチリアに勤めていた頃、アルキメデスの墓について聞いた。場所は伝わっていなかったが、彼は探した末にシラクサのAgrigentine門の近く、低木が繁る省みられない場所に墓を見つけ出した。キケロが墓を清掃させたところ、彫刻がはっきり分かるようになり、詩を含む碑文も見出せるようになった。
黄金の王冠
最も広く知られたアルキメデスのエピソードは、「アルキメデスの原理」を思いついた経緯である。ヒエロン2世は金細工職人に金塊を渡して、神殿に奉納するための誓いの王冠を作らせることにした。しかし王冠が納品された後、ヒエロン王は金細工師が金を盗み、その重量分の銀(鉛とも)を混ぜてごまかしたのではないかと疑いだした。
もし金細工師が金を盗み、金より軽い銀で混ぜ物をしていれば、王冠の重さは同じでも、体積はもとの金地金より大きい。しかし体積を再確認するには王冠をいったん溶かし、体積を計算できる単純な立方体にしなくてはならなかった。困った王はアルキメデスを呼んで、王冠を壊さずに体積を測る方法を訊いた。アルキメデスもすぐには答えられず、いったん家に帰って考えることにした。
何日か悩んでいたアルキメデスはある日、風呂に入ることにした。浴槽に入ると水面が高くなり、水が縁からあふれ出した。これを見たアルキメデスは、王冠を水槽に沈めれば、同じ体積分だけ水面が上昇することに気がついた。王冠の体積と等しい、増えた水の体積を測れば、つまり王冠の体積を測ることができる。このことに気がついたアルキメデスは、服を着るのを忘れて表にとびだし「ヘウレーカ(εὕρηκα!)、ヘウレーカ!(わかった! わかったぞ!)」と叫びながら、裸のままで通りをかけだした。確認作業の結果、王冠に銀を混ぜた不正が確かめられ、金細工師は死刑にされた。
この黄金の冠の話は、伝わっているアルキメデスの著作には見られず、アルキメデスが没してから約200年後、ウィトルウィウスが著した文献『デ・アーキテクチュラ』に記述されているエピソードである。さらに、比重が大きい金の体積をこの方法で調べようとしても、水位変動が小さいため測定誤差を無視できないという疑問も提示されている。
実際には、アルキメデスは自身が論述『浮体の原理』で主張した、今日アルキメデスの原理と呼ばれる流体静力学上の原理を用いて解決したのではと考えられる。この原理は、物質を流体に浸した際、それは押し退ける流体の重量と等しい浮力を得ることを主張する。この事実を利用し、天秤の一端に吊るした冠と釣り合う質量の金をもう一端に吊し、冠と金を水中に浸ける。もし冠に混ぜ物があって比重が低いと体積は大きくなり、押し退ける水の量が多くなるため冠は金よりも浮力が大きくなるので、空中で釣り合いのとれていた天秤は冠側を上に傾くことになる。ガリレオ・ガリレイもアルキメデスはこの浮力を用いる方法を考え付いていたと推測している。
アルキメディアン・スクリュー
工学分野におけるアルキメデスの業績には、彼の生誕地であるシラクサに関連する。ギリシア人著述家のアテナイオスが残した記録によると、ヒエロン2世はアルキメデスに観光、運輸、そして海戦用の巨大な船「シュラコシア号」 の設計を依頼したという。
シュラコシア号は古代ギリシア・ローマ時代を通じて建造された最大の船で、アテナイオスによれば搭乗員数600、船内に庭園やギュムナシオン、さらには女神アプロディーテーの神殿まで備えていた。この規模の船になると浸水も無視できなくなるため、アルキメデスはアルキメディアン・スクリューと名づけられた装置を考案し、溜まった水を掻き出す工夫を施した。
これは、円筒の内部にらせん状の板を設けた構造で、これを回転させると低い位置にある水を汲み上げ、上に持ち上げることができる。アルキメディアン・スクリューは、ねじ構造を初めて機械に使用した例として知られている。
ウィトルウィウスは、この機構はバビロンの空中庭園を灌漑するためにも使われたと伝える。現代では、このスクリューは液体だけでなく石炭の粒など固体を搬送する手段にも応用されている。
アルキメデスのクレーン
アルキメデスのクレーンとは、当時の重要拠点であったシラクサ防衛のために設計された兵器の一種である。
「シップ・シェイカー」(the ship shaker) とも呼ばれるこの装置は、クレーン状の腕部の先に吊るされた金属製の鉤爪を持つ構造で、この鉤爪を近づいた敵船に引っ掛けて腕部を持ち上げることで船を傾けて転覆させるものである。
2005年、ドキュメント番組『Superweapons of the Ancient…
アルキメデスはまた数学の分野にも大きな貢献を残した。級数を放物線の面積、円周率の計算に用いた他、代数螺旋の定義、回転面の体積の求め方や、大数の記数法も考案している。彼が物理学にもたらした革新は流体静力学の基礎となり、静力学の考察はてこの本質を説明した。
アルキメデスは、現代で言う積分法と同じ手法で無限小を利用していた。背理法を用いる彼の証明では、解が存在するある範囲を限定することで任意の精度で解を得ることができた。これは取り尽くし法の名で知られ、円周率π(パイ)の近似値を求める際に用いられた。アルキメデスは、ひとつの円に対し外接する正多角形と、円に内接する正多角形を想定した。この2つの正多角形は辺の数を増やせば増やす程、円そのものに近似してゆく。アルキメデスは正96角形を用いて円周率を試算し、ふたつの正多角形からこれは31⁄7(約3.1429)と310⁄71(約3.1408)の間にあるという結果を得た。また彼は、円の面積は半径でつくる正方形に円周率を乗じた値に等しいことを証明した。『球と円柱について』では、任意の2つの実数について、一方の実数を何度か足し合わせる(ある自然数を掛ける)と、必ずもうひとつの実数を上回ることを示し、これは実数におけるアルキメデスの性質と呼ばれる。
『円周の測定』にてアルキメデスは3の平方根を265⁄153(約1.7320261)と1351⁄780(約1.7320512)の間と導いた。実際の3の平方根は約1.7320508であり、これは非常に正確な見積もりだったが、アルキメデスはこの結果を導く方法を記していない。ジョン・ウォリスは、アルキメデスは結論だけを示し、後世に対して方法をそこから引き出させようとしたのではと考察している。
球の体積は無限小・積分を用いることで公式を発見した。また球の表面積は無限小・積分・カヴァリエリの原理を用いることで公式を同じ高さの円柱の側面の表面積と等しいことを示した。
『放物線の求積』でアルキメデスは、放物線が直線で切られた部分の面積が、放物線と直線の交点と直線と平行な接線が接触する3点を頂点とする三角形の面積の4⁄3倍になることを証明した。これは、無限級数と公比を用いる。最初の三角形の面積を1とし、この三角形の2辺を割線とし、放物線の隙間に同様な手段で2つの新しい三角形を想定すると、この面積の和は1/4となる。これを無数に繰り返して放物線の切片を取り尽くすと、面積は、
∑
n
=
0
∞
4
−
n
=
1
+
4
−
1
+
4
−
2
+
4
−
3
+
⋯
=
4
3
.
{\displaystyle \sum _{n=0}^{\infty }4^{-n}=1+4^{-1}+4^{-2}+4^{-3}+\cdots ={4 \over 3}.\;}
…
彼は革新的な機械設計にも秀で、攻城兵器や彼の名を冠したアルキメディアン・スクリューなどでも知られる。また、数々の武器を考案したことでも知られ、シラクサの戦いにおいて、てこを利用した投石機を用いて敵の海軍を打ち破った。
ギリシア的学問は純粋に論理を展開することに美しさを見出して重視し、実利的・営利的な技術などの知識はむしろ軽蔑された。プルタルコスは『対比列伝』(「英雄伝」)にて、「彼(アルキメデス)は純粋なる思索にすべての愛情と大望を注ぎ、俗な実用的応用を論及したことは皆無だと言い切れる」と記したと書いた。(ただしソクラテスのように実利性があれば必要だとしても実利性ない学問は意味がないとする哲学者もいた。)
この2つの側面を併せ持つアルキメデスは、数学に限らずこの時代の学者としては異例な存在だった。しかし、この矛盾する2つの側面をアルキメデスは共存させながら、ピタゴラス的な数の概念とは大きく異なる「天文学的数字」を『砂の計算』で想定したり、現代の積分法に繋がる方法で面積を求めつつエウドクソスの方法で証明しなおしたりと、自己内に相克を見せた。だが、このような論理と技術の鬩ぎ合いは特に近代ヨーロッパ以降で表面化した数学の現象であり、それが数学を進歩させた原動力となった。アルキメデスが生きた時代にはこのような矛盾を孕んだ発展は望むべくも無く、彼以後のギリシア数学は形骸化した権威に沈んだ。
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Grotta dei Cordari間違った時間、通行止めの道、語る価値のある物語。ここに書いてください。ページに反映する前に、人が目を通します。
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